長州五傑がUCLに密航留学してから150年
今年は伊藤博文ら長州五傑が渡英してから150周年という節目の年だという。イギリス国内ではユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の大沼教授らを中心に「日英学術交流150周年記念事業」の一環で様々なイベントが企画されている。僕も微力ながら広報活動のお手伝いやインタビューなどを通じて、本業の研究の傍ら幾らか少しだけ関わっている。
雅楽の演奏や、「長州ファイブ」という映画の上映会も企画されているのでとても楽しみにしている。
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ただ、恥ずかしながらそんな僕もこの「長州五傑」という言葉を知ったのは、実はつい最近のこと。今年の1月28日に、JSPS(学振)のロンドン支部で行われた日本人研究者のための会合で、大沼教授によるプレゼンテーションを聞いてからの事。
今日は、そんな日英関係を知る上ではとても大切な歴史について書いてみる。少し長くなるけれど、興味があればぜひ読んでみてください。
時は1863年。江戸幕府の末期、国内で外国人を排斥するべきだという攘夷運動が活発化する中、長州藩から5人の若者が「幕府に知られれば死罪」 という国禁を犯してまでイギリスに密航した。この5人の日本人を当時のイギリス人が”Choshu Five”と呼び「長州五傑」はその訳語である。そしてその5人こそが、欧米列強に飲み込まれそうになっていた日本を立て直し、そしてその新しい日本が世 界と渡り合えるような大国へと成長するための基盤を築いた男たちであった。
伊藤博文(当時22歳)
初代内閣総理大臣に就任、大日本帝国憲法として発布し、日本を立憲主義国家に導き政治を確立。
井上馨(当時28歳)
初代外務大臣に就任、政治的・経済的に欧米列強国と並ぶために不平等条約改正に尽力。
井上勝(当時20歳)
イギリスで鉄道や鉱山学を学び、帰国後鉄道頭に従事、メイドインジャパンに拘り日本人だけの力による鉄道建設を実現。
山尾庸三(当時26歳)
見習工として働きながら科学を学び造船技術を習得。帰国後、国力強化を目指す人材育成の必要性を主張し、世界初の工学部の前身となった工部大学校設立。
遠藤謹助(当時27歳)
大蔵省に入った後、大阪貨幣局長となり、造幣技術者の養成を通じ日本人技師の力による造幣を確立。
最初に留学を決意したのは井上馨であった。彼は根っからの攘夷論者であったが、吉田松陰の師でもある佐久間象山から「海外の強国は互いに技術を学び合い、お互いを知ることで富強を図っている」と説かれ、そんな列強諸国と対峙するためにはまずは西洋に学んで海軍力の充実を学ぶことが不可欠ということを考えたからであった。
長 州藩は当時、軍備強化のためにイギリスのジャーディン・マセソン商会から蒸気船を購入している。そして彼らは、その操作のために外国人を雇うことは「攘 夷」の精神に反するということから、藩外から勝海舟のもとで学んだ者を呼び寄せたという。ところが彼も蘭書で学んだ知識をなんとか持ち合わせるのみで、折 角購入した蒸気船もろくに使いこなすことが出来ない現状がそこにあった。この現状を身を持って知っていた井上馨は、佐久間の言うことの正しさがすぐに解っ た。
井上馨が藩に留学許可を嘆願し、それが許可されたことを耳にした井上勝と山尾庸三も後に続いた。ただし、そこには条件があった。
「海外へ渡航して学校へ入学したいという希望は聞いたが、海外渡航は依然として国禁であり、藩としては公式に許可することは出来ない。しかし、外国と兵端を開いた時には、海外からその技術を取り入れることは難しくなる。従ってこの際、右3人には5年間の暇を与えるから、その間に宿志を遂げてほしい。修行を終えて帰藩したら、海軍一途をもって奉公して貰いたい。*」
彼らは、5年間という短期間で、イギリスの持つ高い技術・知識を極めて持ち帰ることを誓わされたのである。そこに、井上馨に熱心に誘われた伊藤博文と、遠藤謹助が加わった。
彼らは何とかして金を工面すると、横浜港で貿易を行なっていた英国のジャーディン・マセソン商社の助けを借りて密航した。5人はまず上海まで行き、上海支店長に紹介状を見せて渡英したい旨を伝えた。「イギリスで何を学びたいのか。」という質問に、少しだけ英語の分かった井上勝が「ネービー(navy)」と言うつもりで「ネヴィゲーション(navigation)」と間違えて言ってしまったものだから、彼らは乗客料金を払ったにもかかわらず「いい経験だ。」と新入り水平として長い渡航期間中こき使われてしまったという。
当時のイングランドでは、大学で勉強できるのは英国国教会に属する白人のみという決まりがあった。しかしそんな中、唯一UCLだけが、人種、宗教、性別にかかわりなく教育の機会均等の理念を掲げていた。そんな背景もあって、ジャーディン・マセソン商会が5人を紹介したのはUCLで化学を教えるウィリアムソン教授であった。
この頃の日々を、井上馨は「5人は2つの家に分宿して、各々英学を修行することとなれリ。蕃書調所にて編纂した英和辞書を唯一の指南書と頼み、日夜英学を研究せり。日を積むの久しき、其の業漸く進み、英字新聞も辞書に頼り、又は同居の主人夫婦に質問して読みうるに至った*」と述懐し、伊藤博文も「毎日通学して朝夕はウィリアムソン博士の家で英語を学び、昼間は大学で稽古した*」と語っている。
そんなある日、5人はロンドンタイムスで薩摩の起こした生麦事件、長州と英仏蘭米との間の下関戦争の事を知った。「このままでは藩どころではなく国自体が滅亡してしまう」と危惧した彼らは、伊藤博文と井上馨を帰国させることにし、二人は高杉晋作とともに下関戦争の講和談判に望んだ。彼らがたった半年の留学期間だったにもかかわらずその大役を果たせたことを考えると、相当必死に英語を学んでいたことを想像できる。
後 を任された残りの3人は更に勉学に精を出した。井上勝は5年間をかけてUCLを卒業し、山尾はUCLを退学し産業革命の地であるスコットランドのグラス ゴーで昼間は造船場で職工をして滞在費を稼ぎながら夜はアンダーソンズ・カリッジで勉強した。遠藤は2年で帰国することとなったが、高い英語力から桂小五 郎の下で通訳、翻訳、海外の情報収集などをして活躍したという。
明治政府発足後、伊藤博文は岩倉使節団として欧米の視察に出発する。アメリカ、イギリスだけではなく、フランス、ドイツ、ロシアなどの国々を22ヶ月にわたって歴訪し、各地で都市や議会、学校や工場などを精力的に見学した。彼らに一番の影響を与えたのは実はイギリスではなくドイツであったといい、明治憲法はドイツ憲法の色が濃い。
「フランスでは政治は国会の多数意見によって決まる。イギリスでは国会は多数を占めた政党のリーダーが政治を担当する。これに対しドイツでは君主が立法行政の大権を掌握しているが、君主専制ではなく、君主も国の定めた規律に従わなければならないとする。*」
伊藤博文は、ここでいう君主を天皇に確定することでこの仕組みを日本に持ち込んだ。
同じ頃、井上馨は新政府にとって大きな課題であった不平等条約改正に尽力していた。道半ばで外務大臣を退くことになるが、政界引退後は三井物産の設立に関与し、日本鉄道会社、日本郵政設立にも深く関わって財界に大きな影響をあたえることになった。
遠藤謹助は帰国後、日本人による造幣技術の確立に生涯をかけた。彼はイギリス留学中、世界で最も早くから貨幣を作り始めたイングランド銀行を見学している。当時の日本には、国内で統一された貨幣というものが存在していなかった。藩 毎に異なる紙幣や金貨や銀貨が流通していたが、海外市場では金1に対して銀15であったのだが日本では銀5であったため、大量の金の国外流出も起こったり もしていたという。従って新政府はすぐにイギリスのオリエンタル銀行と契約を結び造幣局を設置した。しかしその全てがお雇い外国人主導で、更に職人の月給 が5円であった当時、イギリス人の工場長の月給は1045円と破格であった。日本側の最高責任者であった遠藤謹助はこれを問題視し、技術教育を徹底するこ とでついに日本も外国人の手を借りなくても造幣を行えるようになったのだという。今ではその造幣技術は世界でもトップクラスであり、そしてその日本の通貨 は現在世界で最も信頼されている通貨とまで度々評価されるほどだ。
UCLを卒業した井上勝は、日本人 だけの力による鉄道建設に生涯をかけた。鉄道建設の技術も初めは全てをイギリスからのお雇い外国人に頼らなければならなかった。そんな当時、日本側の監督 者として抜擢されたのが井上勝であった。京浜鉄道、満州鉄道、大阪・神戸間鉄道と次々に鉄道が建設されたが、大きな負担になったのはやはりお雇い外国人に 対する高すぎる報酬であった。井上勝は外国人依存から脱却するために日本人技術者養成の学校を設立し、人材の育成に全力投球をした。そして最初の鉄道開通 からわずか6年後、周りが不可能だと言うのを押し切って、山岳トンネルの難工事を含む大津・京都間鉄道建設を日本人だけの手で完成させてみせた。以来、日 本の鉄道技術は急速に発展していくこととなった。麻生副総理の米CSISのスピーチから引用すると「東京大阪間を結ぶ新幹線は、平均30秒の遅れで運行しています。分ではなく秒です。1964年の開業以来、乗客の死亡事故はもちろん、事故による1人の負傷者も出していません。」この伏線はこの時既に張られていたと言っても過言ではない。
グラスゴーで工学を学んだ山尾庸三は、 殖産興業のための工業の重要性を訴え、新政府に工部省の新設を働きかけた。更に人材育成の為に工部大学校(今の東大工学部)の設立を提案し、周りがその重 要性を見出さなくとも「工業ナクモ人ヲ作ラバ 其ノ人工業ヲ見出スベシ」と主張して実現させた。この頃欧米諸国においても、「工学」というものはまだ学問 としては浅く、専門学校で教えられることはあっても、総合大学において工学が教えられることはなかった。その中、日本は土木、機械、電信、建築、実地科 学、溶鋳、鉱山の7つのコースを持つ大学を世界に先駆けて設置した。授業は全て英語で、最初の二年は教養課程、次の2年で専門教育、最後の2年で実地教育を行うという相当ハードで厳格な大学であったという。日本が技術大国と呼ばれるようになった所以は、まさにここに存在している。
こ んな歴史を知ると、一人の日本人としての在り方を、そして一人の留学生としての在り方を深く考えさせられる。少なくとも彼らには、「自分一人が頑張ったっ てどうせ何も変わらない」などという思いは一切なかった。皆が、自分というたったひとつの人間の価値を心から信じていた。そして命を賭してまでその使命を 全うするために一所懸命に生きた。そんな彼らがいたからこそ、今の日本がある。
僕もそれだけの気概を持って、一所懸命生きていきたいもの。
*松野浩二『その後の長州五傑』
ISBNのない本なので本屋では手に入らないと思いますが、出版社の大村印刷に問い合わせた所、直接発注できました。とてもおもしろい本なので皆様も興味があれば是非^^
連絡先:
大村印刷株式会社 東京本部 生産管理課
東京都港区浜松町2-2-12 JEI浜松町ビル8F 〒105-0013
TEL.03-6459-0066(代)
著者紹介:
高専在籍時にAFSの53期生としてアメリカのオレゴン州で一年間地元の高校に通う。帰国後アメリカのアーカンソー大学フェイエットビル校に編入し2011年に理学士コンピューターサイエンス、2012年に教養学士心理学を修了。2012年秋よりオックスフォード大学にて、博士号課程で計算神経科学を勉強中。色々と大変ですが、常に色んな事に挑戦しながら精一杯頑張ってます。
詳しくは自己紹介ページよりどうぞ^^
@kosuke7kon 2016年11月6日 - 8:57 AM
#アレキサンダー・ウィリアムソン教授 @ucl
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