オックスフォードな日々

とあるオックスフォード大学院留学生のブログ

天国の祖父に

祖父が他界してもうすぐで一年が経つ。兄の結婚式の為に帰国したその半年前の春、彼ははまだまだ元気で普通に会話もできていた。だから突然、「おじいちゃん、もう長くないかもしれない。」と連絡が入った時には耳を疑った。「絵葉書でも送ってくれたら耳元で聞かせてあげますよ。」と言われたけれど、どうしても信じられなかった。きっと何かの間違いだろう、と。きっと来月には回復してて、電話越しで「心配したよ!」って笑えるんじゃないか、と。そして、そう思えば思うほど、あまりにも辛くて手紙を書こうにも筆は全く進まなかった。だけど現実は酷い。その一週間後、訃報が届いた。

それは本当にあっという間の出来事であった。帰国しようかと迷っているうちに祖父は息を引き取り葬儀も終わってしまった。戒名やその後のことを聞かされても、何も頭に入ってこなかった。周りは皆、現実を受け入れてまた歩み始めているというのに、海を挟んだ遠い地にいる自分にはずっと何一つ現実の話には聞こえなかった。僕の記憶の中では、祖父は最期に言葉を交わした時の姿のままで止まっている。だから次に帰国した時も、きっと僕は真っ先に電話をかける。僕は、ゆっくりと立ち上がって年季の入った黒電話に向かう祖父の姿を思い浮かべ、長い呼び出し音の後にガチャっと受話器が取られる音を待つ。そして「もしもし」と言う彼の声を聞く。「ただいま。日本に帰ってきたよ!」と伝えると、彼は「お帰り」と言ってから、少し照れた様子で「ばあさんに変わるぞ」と言う。もう二度とない光景が止めどなく浮かんできて嗚咽した。

先日、『Confirmationを終えて、残り一年。』で書いたようにようやく一息つくことができたため、あれから初めての帰国をした。オックスフォードを出たのは朝4時半。ヒースローからフランクフルトまで飛んで、中部国際空港に到着したのは翌朝8時半。色々な思いが交錯し、結局一睡もすることができなかった。だけど、どうしても真っ先に挨拶をしなくてはいけない人がいた。一旦、荷物を置きに実家に寄った後、すぐに祖母の住む家に向かった。

昔からほとんど何も変わらない田舎の風景に徐々に高まる心拍数。拍動が自分の耳にも響くようになる。祖母の家の表札は自分の記憶のまま、祖父と祖母の名前が並んでいた。丸々一日以上起きていた疲れからか、一瞬だけ、もしかしたら悪い夢を見ていただけなのかな、と疑う。玄関の鍵は開いていた。扉を開けて「ただいま。」と少し声を張ったものの返事はなく、仕方がなく玄関を上がって居間に行くと、すっかり疲れた様子の祖母の姿があった。「ただいま」と改めて言うと、ようやく気づいた祖母は「おかえり」と笑顔になった。

仏壇の前に座ると、一気に力が抜けた。訃報を聞いて以来、ずっと目をそらしてきた現実が今目の前にあった。笑顔で「ただいま」と、いつもの様に言おうと決めていたのに声にならなかった。それよりも「ごめんなさい」という思いがこみ上げた。一杯一杯お世話になったのに、自分は結局彼に何もしてあげることができなかった、と。

小学校の頃、図工の時間に作った鳥小屋を祖父にプレゼントしたことがあった。「鳥小屋だ」と言わなければ誰も何だか分からないようなとても不格好な木のガラクタを「よくできてるね」と彼は褒めてくれた。それからしばらくして、自分でもそんなことを忘れた頃、「あそこを見てご覧」と彼の指差す先の庭の木を見ると、そこには綺麗にリフォームされたその鳥小屋があった。その時の、とても誇らしい気持ちをふと思い出す。

夏休みの宿題で電気工作したいと言うと、本棚から色々な本を選んできて譲ってくれたこともあった。その本に書いてあった部品屋を探しに母と秋葉原を歩き回った。でも結局そこに書いてあった情報は古くなっていてお店はもうなく、全部その後に行った東急ハンズで揃ってしまったことを思い出すと少し笑ってしまう。

僕がモノ作りを好きになったのは、きっと、そんなところに原点があるのだと思う。

01-02@17-24-46-772

そしてひとつ、ずっと謝りたかったことがあった。中学校の頃、僕は学校が嫌いで、何度も保健室に行っては微熱を理由に早退していた。そんなある日、保健の先生が緊急連絡先に登録されていた祖父の家に連絡を入れてしまった事があった。わざわざ遠いところを車で迎えに来て本当に心配そうにする祖父の姿を見て、つい本当に体調の悪いふりをしてしまった日のことを忘れられない。だけどその罪悪感から、あれ以来二度と仮病を使うことはなくなった。今、海外で頑張っていることも、その時に変わることができなければなかったと思う。

仏壇の前で、そんな風に色々なことを思い出して涙が止まらなかった。だけどやがて落ち着いて、その後はしばらくボーッと位牌を眺めていた。ふと、飛行機の中で読んだ浅田次郎の「椿山課長の七日間」の中で、「お線香は仏様のご飯」とあったこと思い出し、お線香に火をつけて香炉に立てた。それから一度深呼吸して、亡き祖父にやっと「ただいま」と報告をした。

彼がいなかったらきっと自分は留学なんてすることもなかった。だけど留学をしていたからこそ、僕は彼を看取ることができなかった。考えない様にしているけど思い出すと苦しくなる。留学していると周りにもそんな人がいっぱい。あまりにも遠すぎて何もできないもどかしさを押し殺して、だけど皆、せめて頑張る事が孝行と自分に言い聞かせて戦っている。だから、「ごめんなさい。」という言葉は飲み込んだ。だけど、何度も「ありがとう。」と言った。今までいつも、そしてきっとこれからもずっと見守ってくれているはずと信じて。きっと人は死んでもどこかに消えて行ってしまうのではない。「心のなかにいる」というのは、多分本当なんだと思う。

本当はもう一度、一緒にお酒を飲みながら沢山色々な話をしたかった。だけど、それは僕自身が人生を精一杯生きて全うするまでのお預け。寂しくなるけれど、これからもいつでも近くで見守ってくれていることを信じて一所懸命生きていきたいと思う。

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著者紹介:

高専在籍時にAFSの53期生としてアメリカのオレゴン州で一年間地元の高校に通う。帰国後アメリカのアーカンソー大学フェイエットビル校に編入し2011年に理学士コンピューターサイエンス、2012年に教養学士心理学を修了。2012年秋よりオックスフォード大学にて、博士号課程で計算神経科学を勉強中。色々と大変ですが、常に色んな事に挑戦しながら精一杯頑張ってます。
詳しくは自己紹介ページよりどうぞ^^

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Aki • 2015年10月27日


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