好きで産んだ。それはそうなんだけど。

今、海外出張へ向かう飛行機の中にいる。上空でもスターリンクが当たり前のようにつながる。世の中も随分と便利になったものだと驚きながら、数年ぶりに手にした、まとまった一人の時間を過ごしている。
せっかくなので、普段は考え始めても途中で中断されてしまうことを、少し整理してみたい。子育て支援や働き方を巡る議論を見るたびに、なぜ私はこれほど心をかき乱されるのか。そして、私が理不尽だと感じる相手もまた、なぜあれほど切実に、自分のほうこそ理不尽を引き受けていると訴えるのか。
私は現在、4人の子どもを育てている。想像を絶するほど苛酷で、同時に、この上なく満たされる営みだ。彼らの未来のためなら、金銭も時間も、ひいては自分の人生そのものも、惜しまず投じたいと思っている。
ただし、惜しくないことと、失っていないことは違う。
時間外の自己研鑽。余暇の読書。仕事への全力投球。同僚とのランチ。時間を忘れて続ける議論。子育てが始まって、私は頭の中のタスクマネージャーを開き、それらのプロセスを一つずつキルしていった。そうしなければ、最低限の生活すら回らなかった。
どれも、なくても生きてはいける。だが、どれも私が私であるために、大切にしてきたものだった。
以前、職場の先輩がこぼしていた言葉を思い出す。
「子育てなんて、人類がずっとやってきたこと。だから、まあなんとかなるやろと思ってた。だけど実際にやってみて気づいた。嘘だろ、ここまで大変なわけあるか、って」
本当に、そうなのだ。
幸福であることは、この過酷さを相殺してくれない。幸福と過酷さは、どちらも満額でやってくる。
そんな日々の中で、子育て支援への批判が目に入る。
「なんで他人の子どものために税金を払わなくちゃいけないんだ」「早退する人の仕事を引き受けて、こっちはもういっぱいいっぱいだ」「好きで産んだのだから、自分でなんとかすべきだ」。
読むたびに、頭に血が上る。何もわかっていない、と言いたくなる。
だが、職場で仕事を肩代わりしている人にも、帰宅後の人生がある。その人が削っているものは、私が手放した読書や自己研鑽と同じくらい、本人にとって大切なものかもしれない。子どもがいないからといって、時間が余っているわけではない。
それはわかる。わかるのに、なお苦しい。
妻に、このもどかしさを訴えたことがある。彼女は静かに言った。
「まあでも、私たちが勝手に産んだのは事実だもんね」
その通りだ。誰かに頼まれたわけではない。自分たちで選んだ。
それでも私は、そこで話を終わらせることができなかった。
子どもたちは、私にとってかけがえのない存在である。同時に、私は彼らを育てることを、自分の人生における大切な責務としても捉えている。受け取った命を、次へつなぐ。自分がいなくなった後にも続く世界に、何かを手渡す。私は、そのことに人生を使いたい。
これは、他人に同じ生き方を求めるための道徳ではない。私が自分の人生をどう使うかという、個人的な確信だ。
だが、私にとってそれほど重い営みが、「好きでやっていること」の一言で社会との接点を切り離されると、どうしても耐え難いものがある。
自分で選んだ。その事実は認める。しかし、自分で選んだことには、社会が支える理由が一切なくなるのだろうか。
私が考えたいのは、そこだ。
オックスフォードで博士課程を過ごしていた頃、遠距離恋愛の末に恋人に別れを告げられ、人生のどん底を味わった時期がある。精神的な拠り所を求め、私は一度、宗教と真剣に向き合おうとした。
学問の街で、多くの知識人が信仰を持って生きている。ならば、きちんと学べば、神の存在について論理的な確信を得られるのではないか。そんな期待があった。
今思えば、ずいぶんと研究者らしい、そして都合のよい入り方だった。
少なくとも、そこで私が向き合った信仰において、神の有無は、証明を待つ対象ではなかったのだ。新約聖書のヘブル人への手紙には、神に近づく者は、神が存在しておられることを信じていなければならないと明確に記されている。つまり、神の存在は結論ではなく出発点である。まずはその前提を呑む。その上に立って初めて、一つの精緻な世界観が組み立てられていくという構造だった。
これに似た構図が、私が研究してきた意識の科学、とりわけ情報統合理論などの領域にも当てはまる。この理論は、まず最初に、意識の経験にはどのような本質的な性質があるかを公理として置く。その前提から、意識を生む物理的な仕組みの条件を導き、意識の有無や程度を数理的に捉えようとするのだ。ここで、あなたの導き出した数式は私の考える意識の要件を満たしていない、という批判があったとする。それは数式の誤りを指摘しているのか、それとも出発点である意識の捉え方に異議を唱えているのか。そこを区別しないままでは、議論は噛み合わない。
子育てを巡る摩擦にも、これに似たすれ違いがあるように思う。
ある人は、まず「自分の人生をどう生きるかは、自分で決めたい」と考える。そこから見れば、他人の選択を理由に、自分の時間や所得が削られることには説明が必要だ。
私はそこに、もう一つの問いを持ち込んでいる。「その自由を可能にしている社会は、誰によって、どうやって次の世代へ続いていくのか」。
この二つは、子どもがいる人と、いない人にきれいに分かれる思想ではない。私自身、自己研鑽の時間を失うことを惜しみながら、社会の持続を語っている。個人の自由を大切にする私と、次の世代への責務を感じる私は、同じ人間だ。
断層は、人と人の間だけにあるわけではない。自分の中にも走っている。
年老いたとき、預金残高があるだけでは暮らせない。食べ物をつくる人、運ぶ人、診療する人、水道を直す人が必要になる。技術や制度がどれほど変わっても、私たちの暮らしを引き受ける誰かが、未来にも生きている必要がある。
そして、その誰かは、ある日突然、仕事のできる大人として現れるわけではない。
誰かが食べさせ、着替えさせ、病気のときには看病し、何度も同じことを教える。その時間は、誰かの睡眠や、仕事や、読書の時間から生まれる。私が頭の中でキルしてきたプロセスも、その一部だ。
社会の未来は、誰かの今日を使ってつくられている。
このことを、私は子どもを持ってから、身体で理解するようになった。自分の時間が失われて初めて、これまで当たり前に存在していた大人たちにも、育つまでの途方もない時間が投じられていたのだと気づいた。
ただ、その時間と資源を差し出しているのは、親だけではない。
保育や教育に携わる人がいる。医療を支える人がいる。税を負担する人がいる。親族や地域で、子どもの成長を支える人がいる。子どもを持たないことと、次の世代を支えていないことは、同じではない。
だから私は、自分が4人育てていることを、そのまま他人より大きな貢献をしている証明にはできない。人の人生を、子どもの数で採点することもできない。
それでも、日々の養育に伴う時間や機会の損失には、お金だけでは捉えきれないものがある。その負担が家庭の中にあるために、社会から見えにくくなっているのではないか。自分で選んだのだからという理由で、見えないままにしてよいのか。私が問いたいのは、そのことだ。
ここには、もう一つ、自分自身に課しておきたい線がある。
子どもたちは、将来の納税者として役に立つために生まれてきたわけではない。親の犠牲を返済する義務も、社会保障の帳尻を合わせる義務も背負っていない。私が未来を語るあまり、彼ら自身の自由を取り上げてしまっては、本末転倒だ。
社会に次の世代が必要だという話と、目の前の子どもに何を要求してよいかという話は、分けておかなければならない。
私が守りたいのは、私たちの老後を支える人員だけが確保された世界ではない。この子たちもまた、自分の人生を選べる世界だ。
私は仕事で、技術や仕組みについて考える。誰かが頑張り続けなければ動かないシステムを見れば、その人の責任感を評価するだけでは済まない。なぜそこに負荷が集中するのか、仕組みを確かめる必要がある。
ところが子育てになると、急に「親の覚悟」と「周囲の理解」の話になる。
たとえば、子どもの発熱で早退する人がいる。その仕事を同僚が引き受ける。同僚にも限界があり、不満を口にする。親は申し訳なさと憤りを抱え、同僚は自分の負担が軽く扱われたと感じる。
このとき、「子育ての大変さを理解してほしい」と繰り返すだけでは、引き受けた人の仕事は減らない。反対に、「好きで産んだのだから」と親を責めても、子どもの熱は下がらない。
業務を減らすのか、人員に余裕を持たせるのか、代替する人の負担を処遇に反映するのか。どれにもコストがかかる。だが、対策をしなければコストが消えるわけではない。親の無理か、同僚の残業か、両者の関係の悪化として、誰かが払うことになる。
その状態で、当事者同士にもっと優しくなれと求め続けるのは、酷ではないか。
もちろん、全てを制度で解決できるとは思わない。どの支援が有効か、誰がどれだけ負担するかは、具体的に検討しなければならない。子どもに関係する施策なら何でも正しい、という話でもない。
だが少なくとも、親の献身と同僚の善意を、いつでも使える余剰資源として扱うことはやめたい。
どちらも、すでに使い切っているかもしれないのだから。
妻の言葉に戻る。
「私たちが勝手に産んだのは事実だもんね」
今も、その通りだと思う。私はこの人生を選んだ。選んだことの責任を、他人に引き取ってもらうつもりはない。子どもたちを育てる日々を、社会が評価してくれなければ引き受けないというつもりもない。
ただ、その責任を引き受けることと、負担の分かち方について口を閉ざすことは、別である。
子どもを持たない人が、自分の時間や人生を守りたいと訴えることにも、同じことが言える。社会の未来を理由に、その人の今日を際限なく差し出させてよいはずがない。
誰もが他人の選択を尊重し、その選択を支える費用については、遠慮なく議論できる。その両方が必要なのだと思う。
そのためには、私自身にも手放すべきものがある。
自分がこれほど苦労しているのだから、こちらの正しさをわかってほしい。そんな気持ちは確かにある。自分の人生を投じているという感覚が強いほど、それを認めない相手に腹が立つ。
だが、私の苦労の大きさだけでは、他人が何を負担すべきかは決まらない。私が自分の生き方に意味を見いだすことと、他人の生き方に意味が足りないと考えることの間には、越えてはいけない線がある。
それでも私は、未来に命をつなぐことに、自分の人生を使いたい。この選択には、迷いのない確信がある。
理解されなくても選ぶ。けれど、理解されなくてよいとは思わない。私が何を引き受けているのかを知ってほしいし、そのために何かを引き受けてくれている人のことも、知りたい。
機内でこうして文章を書いている間だけ、止めていたプロセスがいくつか動き始めている。私はやはり、考えることも、書くことも、仕事も諦めたくない。父親として生きるために、それ以外の自分を全て消したいわけではないのだ。
そして、他の誰かにも、その人の大切なものを消してほしくない。
「好きで産んだ」。確かにそうだ。
その事実を、私は責任を持って引き受ける。けれど、それを議論の終わりにすることには、やはり同意できない。
私が自分で選んだこの営みは、私だけでは完結しない社会の未来に、確かにつながっている。その接点について、私は話し続けたい。
著者紹介:
高専在籍時にAFSの53期生としてアメリカのオレゴン州で一年間地元の高校に通う。帰国後アメリカのアーカンソー大学フェイエットビル校に編入し2011年に理学士コンピューターサイエンス、2012年に教養学士心理学を修了。2012年秋よりオックスフォード大学にて、博士号課程で計算神経科学を勉強中。色々と大変ですが、常に色んな事に挑戦しながら精一杯頑張ってます。
詳しくは自己紹介ページよりどうぞ^^
